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偉大なる脳に手術で挑む…脳神経外科の世界

脳神経外科部長  柿沼 健一

 1) 人体にあって脳は、人類を人類たらしめる最高の臓器である。
 あまた動物種の中で人類は異色の存在です。何でも食べ、食べようと試み、文化と称して衣類は着る、家は建てる、次々に効率的な道具を考案し、自然や他の動物を支配しようとし、仲間同士の戦争も稀ではありません。500万年前アフリカで生まれた祖先は、脳をひたすら発達させ、気候や地形条件を克服して、 北極圏から高山地帯、南太平洋の海の世界まで進出しました。ネズミ、ハエ、ゴキブリなどが同様の分布をしますが、人間に追従しただけなのです(片山一道 「人間とは何か」より)。人類は頭脳によって多様な文化的適応手段を獲得したと言えます。発達した脳の待つ旺盛な好奇心から、行ったことのない土地、知らない事柄に挑戦してきました。その結果、猿人や原人に過ぎなかった我々は、「考える蘆」となったのです。

2) 発達した脳は医学的問題をかかえた。
王者たる脳は供物を要求します。エネルギー源である酸素やブドウ糖などを豊富に溶かし込んだ血液です。脳の重さは体重の2%に過ぎませんが、全血液量の20%という大量の血液が高速で循環しています。直立歩行の大頭へ大量の血液を送るには圧力を上げる必要もありますから(キリンの血圧は200mmHg以上です。ただし彼等は小頭ですから脳卒中は起きにくい。)脳の血管はしばしば耐えきれなくなって脳卒中がおきます。ならばとヒトの脳内血管は急激にカーブし血液の圧力を緩和させる仕組みとなりましたが、今度はそのカーブに瘤ができやすくなりました。脳動脈瘤です。破裂すればクモ膜下出血を起こします。さらに転倒したり落下すれば重たい脳から落ちます。重大な脳損傷を避けるべく頭蓋骨によって保護されていますが、脳はぎっしり頭蓋骨という半閉鎖腔の中に存在する訳ですから出血や腫瘍などができると急に余裕(隙間)がなくなり脳ヘルニアという状態になり、脳幹機能が失われて死に至ります。

 3) 偉大なる脳に人間が手術で挑む。
未知の領域に挑戦し続けて来た脳は、自らを手術しようとし始めました。CT、
MRIに代表される診断技術の革新、手術用顕微鏡や微細な器具の開発、先人達の情熱によって、小さな病変からより大きなものへと、脳の表面からより深部へと、かつてアフリカから世界中に進出したように脳をも自分達の支配領域に組み込もうとするかのようです。今日の手術では、前頭部はもちろん側頭部、後頭部、首、耳の後ろ、鼻や口からも脳に進入します。まず頭部を特殊なピンで手術台に固定しますが、この角度のつけ方だけでも術者の習熟度が推量できます。数度違えると脳内での操作がとても難しくなります。皮膚の切開は髪の中に隠れるように必要最小限。頭や顔の切開線は衣類で隠せませんから。頭蓋骨は高速ドリルで開けますが、頭蓋骨の構造は大変複雑で、その形ひとつひとつに意味があるのです。脳に進入した後は顕微鏡での手術です。極めて細い脳神経、動脈、静脈が簾のように錯綜し、これらを支えるクモ膜からの切離は慎重の上にも慎重を期す必要があります。脳の深部に入れば入るほど傷めてはいけないところばかりとなりミリ単位の勝負です。

 4) わが国では、脳外科医がどんどん減っている。
 ミリ単位の技術と、恰好をつけましたが、それらは全て危険地帯であることを意味します。脳外科医にとっての手術は緊張の連続であり、一度傷付いた神経細胞は再生しませんから、厳しい修練が必要です。もちろん他分野にも難易度の高い手術は沢山あり、当院には名外科医たちが揃っていますし、我々の今日あるは、この春当院を定年退職された江塚先生からの薫陶によるものですが、脳外科医は一人前になるまで最短でも20年以上を要すると言われ、若い医師たちは脳外科を選択することを避け、道半ばでメスを置く脳外科医も急増、新聞等で報じられている通りです。昨今の医事訴訟の増加も大きな要因です。

5) 脳が描く未来。 
 人間以外の動物は、「未知」を危険とみなして回避し、挑戦することは殆どありません。人間のわずか1300gの脳は、未知に挑戦し感動し、芸術や科学を構築して来ました。あり得ないかもしれない世界を想起し、あり得る世界のすべてを知りたがり、宇宙の果てまでも想いを馳せることが出来ます。その生きた脳に直に触れることを許されているのは脳神経外科の手術だけです。飽くなき好奇心と向上心と、偉大なる脳への敬虔な気持ちをもって脳神経外科の挑戦はこれからも続いていくわけです。

 
1)顕微鏡下での脳神経外科手術           2)ハサミもこれほど小さい。指先先端。

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